やっぱり自分は人を見る目がない
年末なので、今回は軽い話題でいきます。
ブログもそうですが、TwitterやFacebookなど様々なWebサービスで情報発信ができるようになりました。
情報発信をする際には、それなりに内容に気を付けています。
以前にもこのブログで書きましたが、ネガティブなことは書かないようにする、読んでいる方が不快にならないようにする・・・など。
結果として、下記のような傾向が出ているのかなと思います。
書かれてあることに、性格が表れる。
書かれてないことに、哲学が表れる。
さて、自分でこんなことを書いておきながら、実際に他の方の情報発信に触れている時に、意外とそこまでしっかりと見ていないなあということに気が付きました。
自己分析ですが、私は人を見る目が全くありません。
従って、情報発信など普段の言動などを見てできるだけその人のことを理解しようとしている・・・つもりです。
が、結局、大してしっかり見ていないなあというのがわかりましたので、なぜわかったのかについて書いてみようと思います。
本来であれば「では、どうすれば良いのか?」も触れなきゃいけないですが、どうもそこまでのセンスはなさそうなので、触れない可能性が高いです。
早速ですが、先日、図書館に行った時に面白い出来事に遭遇しました。
本を寄贈したのですが、その時に「御礼状は必要ですか?」と聞かれました。
10年以上続けて、これまでそんなことを聞かれたことはなく初めてだったので、とてもビックリしました。
(しかも、受付の方はいつもの方と一緒なので・・・。)
ということで、こんなつぶやきでもしようかなと思いました。
----つぶやき-------
図書館で本を寄贈したら「御礼状は必要ですか?」と聞かれた。今まで言われたことがなかったから、ちょっとビックリ。受付の方も立って待っていたりするし、12月から運営方法が変わったのかな?
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さてさて、このようなつぶやきを見たら、どう思うでしょうか?
私の見方であれば、この方は本を寄贈するなど良いことをしているなあと割と信頼感というか、良い人、好印象に繋がります。
さらに同じようなことが続けば、さらに好印象になっていく・・・。
というのが私の見方です。
この方が「ビックリした」という感情にフォーカスするのではなく、行動を見て人物像を評価する・・・という見方をしてしまっています。
発信者側から見れば、もしそういう自分をアピールしたければ、これでいいのかなと思うのですが、さて真実はどうでしょう?
一見、良いことをしているように見えますが、個人的に本を寄贈しているのは、全く個人的な都合、自分にとって大きなメリットがあるからです。
決して、世間一般で言われているような良いことをしましょう・・・の流れでやっていません。
では、どれくらい自分にメリットがあるか見ていきます。
1、保管コストがいらない
(近年ペースが落ちましたが、基本的に)年間100冊単位で本を読んでいるので、本をどう保管するのか・・・というのは割と大きな問題だったりします。本棚に入れるにしてもその面はすぐ埋まってしまいます。
では積み重ねておけば良いかと言えば、そのスペースは完全にデッドスペース。
そもそも積み重ねたら、すぐに取り出すことができません。
家を買うにせよ、賃貸にせよ、お金を払っているのに有効な空間の使い方ではありません。
2、自分の傾向がわかる
図書館では、区分で本を管理してくれます。
ということで私の場合は、経営のジャンルは充実していて、やたらドラッカーが並んでいるなあとか、会計は一通りあるのに、営業のジャンルは全然ないなあとか、自分が読んだ本の傾向がわかります。
同じジャンルでも基本と応用がどれくらいの割合であるのか・・・などもわかります。
次にキャッチアップするべき方向性が見えてきたりするので面白いです。
これを自分の本棚などでやろうとすると、結構面倒くさそうだなあと思います。
3、自分が読んだ本がバレない
著者が本のタイトルを付けることがないせいなのか、中身はしっかりしているのに、タイトルがやたら煽って安っぽいタイトルの本があったりします。
そういうのが自分の本棚に並んでいて、自宅に来た人に見られるのは嫌だなあと思うのですが、図書館に寄贈してしまったらそんな心配はいりません。
4、しっかり吸収しようとする
寄贈しちゃったら、読みたいと思った時に読めないじゃないかという反論があると思います。
ビジネス書は読んで終わりではなく、自分で実践して吸収して初めて読んだ価値があるってもんです。
ということで、寄贈して手元にない・・・となると、それなりに真剣に読んで吸収しようとします。
もちろん線を引いたりできないので、線を引くことで安心したり・・・といったこともなくなります。
必要なら書き出すなどひと手間を加えないといけないのですが、そのひと手間が記憶の定着などに繋がったりします。
5、たまーに反省できる
と言いつつも、久しぶりに図書館で本を開いてみると、新鮮な発見があったり、忘れていることがあったりします。
自宅に置いておくと、一度読んだ本はニーズが発生しない限り開こうとはしないと思います。
が、図書館に行くと、なぜか「これって何が書いてあったっけ?」と開くことがあります。
と、こんな感じでいろいろあります。
ということで「本を売らないで図書館に寄贈している新井さんは良い人だなあ」というのは全くのデタラメで、公的機関を私的利用に使っている新井さんは悪魔な人だなあ、見た目は良さげに見えるだけに本音は何を考えているのか気を付けた方がいいなあと思った方が良さそうだ・・・というのが真実なのですが、まあ、つぶやきからそう見るのは大変ですよね。
以前、友達とやりとりをしていた時に「おまえ、ホントにアホだなあ。」と言ったら、それをたまたま横で聞いていた人が「Aさんにそんなことを言うなんてヒドい。」と怒られたことがあるのですが、関西の人なら何となくわかりますよね?
アホだなあというのは、侮辱しているのではなく一種の愛情表現で、言われた本人もそれを充分にわかっています。
怒った本人は自分の価値観で判断して自分が言われたらヒドいと思う・・・ということで怒ったわけです。
(もちろん、その方とはそこまでの関係が築けていないので、アホなんて表現を私が使うことはないでしょうが・・・。)
構図はこれと同じです。
上っ面の行動を、自分の価値観や世間一般の常識で、善し悪しを評価する。
評価をする・・・という行為がとても危険なことだと同時に、評価基準が自分の価値観や常識なので、その人の人となりを見るのにさらにかけ離れてしまっています。
ここでは「起こった現象に対してどう思ったのか?」という感情と、「どうしてそのような感情になったのか?」ということに興味を持てば、その人の人となりを知るきっかけになります。
が、自分はどうもそこまで深く知ろうとしていなかったみたいです。。。
相手に全く興味を持っていないですよね。
上っ面の行動で判断しちゃいけないなと。
さらに自分の価値観で評価しちゃいけないなと。
Respect Diversityを実践するならなおさらです。
Twitterだと文字数も限られますし、文字数が限られないとしても、そこまで細かく書くことはないでしょう。
なので、その辺は気を付けて見ていかないといけないなあと思いました。
やっぱり自分は人を見る目がないなあ。
見る目がないと自覚しているだけに、早急に評価をして安心しようとしてしまっているのかもしれませんね。
ひとつひとつ反省して要改善です。