2010/07/27

日本のビジネス界、スポーツ界に巣食う教育の嘘

毎日、暑いですね。
あまりにも暑いのでネッククーラーなるものを買ってしまいました。

という戯言はここまでにして今回は、普段疑問に思っていることを書いてみます。

特に「こうした方がいいのでは?」という対応策を書いていないので、ちょっとモヤっとした話になるかもしれません。

とは言え、経営者の方であれば自社の組織化を考える上でのヒント、経営者でない方であれば自己成長のヒントが得られるかもしれません。
(想像力を相当働かせないとヒントが得られないと思うので、やさしくはないのですが・・・。)

ちょいとお付き合いいただけると嬉しいです。

私が普段、思っている疑問とはコチラです。

「食べ物だと天然もの、自然栽培されたものの方が何となく養殖、人工栽培されたものよりも美味しいというイメージがあるけど、人材育成(ビジネスもスポーツも)になるとなぜ日本人は自分で育てようとしたがるのだろう???」

こう思った経緯は、自分の今までを振り返ってみたからです。
個人的には、普通の教育、研修を受けてこなかったと考えています。

各会社を見ていると教育で良いコンテンツを探し求めている所が非常に多いです。
(というか良いコンテンツが欲しいのは、当たり前ですよね。)

そのこと自体を否定するつもりは全くないのですが、自分の経験を振り返ると、良いコンテンツよりも良いコンテキストの方が本人の成長に大きく関係するような気がしています。

例えば、ライバルの存在、努力を認める風土、失敗した時に周りがフォローする、チャレンジを認める評価、制度、公平な仕組や機会などなど・・・。

もしかすると、自分自身を正当化しているだけなのかもしれません。

とは言え、例えばサッカー界を見ても面白い現象が見られます。
日本では「育ての親」なる人が存在しますが、世界のサッカー界ではそのような人の話はあまり聞きません。むしろその選手を発掘してきたスカウトの方にフォーカスが当たっているような気がします。

「育てる」よりも「育つ」と考えているような・・・。
だから伸びる選手は発掘されて、どんどん成長できる環境に放り込まれている、飛び込んでいる・・・のが世界の主流かと。
(上記ではライバルの存在・・・と書きましたが、実際は生き残りを賭けたもっと厳しい環境ですが・・・。)

また、個人的には教育という言葉が傲慢で嫌いです。

正確な定義は知らないし、専門家に言わせればそれは違うと言われると思いますが、「教え育てる」って教える側が主語なのが・・・ね。

教わる側が主語の「学習」とか、そういう言葉を使った方が謙虚に人材育成のことを考えているような気がします。

と言いながら教育、教育って言っている人が英語を使うと、エデュケーションよりトレーニングとかラーニングといった言葉の方が目立っているんだからとても面白いです。

また、日本のサッカー界にも面白い現象が見られます。

例えば、今回のワールドカップ決勝を戦ったオランダ、スペインでは「サッカーの要素を考えない、サッカーに必要な能力だけを鍛える」トレーニングはあまり行っていません。

これはどういうことかと言うと、「サッカーに必要な能力だけを鍛える」とは、例えば「リフティング」や「コーンを置いてドリブルの練習をする」・・・などです。

こういった練習は確かにドリブルの技術を向上させます。
しかし「状況を打開する」といった状況判断が求められる場面で結果を出せないことになってしまう。

一方、「サッカーの要素を考えた練習」とは、サッカーはボールがあって味方や相手、ルールやコーナー、ペナルティなどがあり、それらを考慮したものです。

例えばサッカーの要素をそのまま入れると難易度が高いので、難易度を下げるために人数を減らします。
そのひとつとして、「3対3のパス回し」がありますが、日本だと攻め手がボールを奪われたらそこで終わりです。

しかしサッカーの要素を考えると、ボールを奪われたらそれはディフェンスの始まりです。
従って、ボールを奪ったら終了ではなく、ディフェンス側はボールを奪っても設定したラインを越えないと終了になりません。

つまり、攻め手は奪われてもすぐにディフェンスをして奪うことができれば攻撃を続けることができる・・・このようにできるだけサッカーの要素を考慮して難易度や負荷をレベルに合わせて調節するのが世界の主流になっています。

世界に追い付け、追い越せ・・・と頑張って、見よう見まねでサッカーに必要な能力だけを鍛えてきたのだと思います。
結果として、その技術は世界に負けないぐらいになってきたと思います。

だからこそ、次のステップは状況判断や洞察力を磨くサッカーの要素を考慮した練習が必要になってきているような気がします。

これって口で言うと簡単ですが、身に付けて表現できるようになるには、かなり時間がかかりますよね。
最初はなかなか向上しなくて、いらいらする話です。

ビジネス界で良いコンテンツを探して、その環境に目を配るのを怠ってしまうのも同じ状況かもしれません。
どちらも結果が出るには非常に時間がかかる。

だから、手っ取り早い技術向上に注目してしまう。

その気持ちもわかりますし、今まではその技術もなかったわけだから、それを追い求めてきたこと自体は間違っていなかったと思います。

ただビジネス界にせよスポーツ界にせよ日本の教育現場(学習現場)は次のステージに来ているのではないか、何となくある閉そく感を明るい未来を感じられるようにするには、この辺に着手しなくちゃいけないのではと思っています。


追伸)
自分が大好きなサッカーを例えに書いてみましたが、かなりはしょっているような気がして、うまく伝わっていないなあと感じています。

ごめんなさい。

ざっくり抽象的な表現で話をするならば、

・状況判断を求められる場面が多く、その場面に正解はない。
・その場、その場で本人が自分で答えを出して突き進むしかない。

このような場面で活躍するために、人材育成を考え提供する立場の人達は・・・

・答えを教える・・・と言うよりも自分で答えを出す環境を用意して、経験を積ませる
・その経験を活かせるように、振り返らせる、その結果出てきた課題を一緒に潰してあげる

となるとビジネス界では座学だけでは足りなくなってきそうですね。

問題定義や現状分析などの力も今以上に求められてきそうです。

サッカー界は、チャンピオンズリーグに日本人選手がバンバン出て、ワールドカップ優勝を生きている間に見たい・・・なんて妄想をしています。(笑)

サッカーを例えにしましたが、正直、他のスポーツが同じ状況なのかよくわかりません。
が、日本人の教え好きを見ると・・・。

今回書いた内容は技術の伝承が必要なモノづくりの現場の場合どうなのか・・・といった視点で考えてみてもいいかもしれませんね。

テーマが拡散した内容で失礼しました。
ここまで読んでいただき感謝しています。

2010/07/05

最近の若者はどうよ?

仕事柄、いろいろな方とお話をします。
経営者や役職の方になると「自社の人材」はやっぱり気になり、よく話題になります。

その中で多く出てくるのが「最近の若者はワガママ」、「個性の時代だと言われて育ってきているのか自分勝手」といった声。

個人的に大学生に接したり、若い人達とはできるだけ接点を持とうと、いろいろな機会(週末にサッカーをしたり)を設けていますが、そこで見る若者達は決してそんなことはありません。

若者が将来を作っていくことを考えると、優秀であってほしいと思うだけに、自分が接して感じることと、聞いた話をまとめながら、今回はこの点を掘り下げてみたいと思います。

「ワガママだ」、「自分勝手だ」と思っている方も、彼ら彼女達とうまく仕事をしていくヒントを得られるきっかけになればと思います。

世の大人達(ここではあえてこう表記しますね。他意はありません。)が若者に対して「ワガママだ」、「自分勝手だ」と思うのは、どうやら2つほど考えられそうです。

一つ目は、若者の価値観が多様であるということ。

スポーツで例えるならば自分達の時代は「試合に勝とう!」と言えば、それで団結できたのが、今は「試合に勝てなくても楽しければいいじゃん!」という考え方がある。

No.1ではなくオンリーワンでいいじゃない。
(勝つ(No.1)ことで、オンリーワンになる・・・という話ではないらしい・・・。)

このような考え方を持っている人達がいます。
価値観なんて考える必要がない、自分達の時は、たった一つで明白なものだったのが、今はたくさん解釈の余地がある。

そこがわからん・・・と。

そんな時はまどろっこしいかもしれませんが、仕事ひとつひとつに意味付けをしないとなかなか動かないのでは?

例えば、この仕事がどれだけの貢献をしているのか・・・。
周りやお客様だけでなく、地域や社会といった観点からも、価値を伝えていかないといけなくなっています。

従って、目標だけでなく目的を伝えることは今まで以上に細かくやっていった方が良さそうです。

またNo.1ではなくオンリーワンでいいじゃない・・・という価値観が浸透しているせいか、自分達と比較すると圧倒的に成功体験、失敗体験がない。
(No.1を目指すということは結果が白黒はっきりする中で経験を積むことになるので・・・。)

従って、何かにチャレンジすることに憶病になっているようにも見えます。
失敗という結果ではなくチャレンジしたということの方が評価される・・・という風土や制度を作っていく必要もあります。

上記は全世代に関わる話なのかもしれませんが、なかなか大変です。
ではどうすれば良いかは、別の機会にしたいと思います。

次に2つ目ですが、「ワガママだ」、「自分勝手だ」と感じてしまうのは、「自分の立場を主張しすぎてしまうから」というのが挙げられそうです。

自分の個性を出せ・・・と言われてきたせいなのか、意見を持って主張はできます。
ただその内容が自分の立場で言ってしまう。

コンサルタントとして、第三者の立場でいろいろ仕事をしているのでよくわかりますが、案が通って実行に移されるのは、「自分の立場を主張した」案ではないです。

「関係する人達の立場を代弁した」案が圧倒的に通ります。
(決して相手に媚びた内容ではないです。相手にとって耳の痛い話でも、相手の立場に立った主張であるならば通ります。このように書くと何もわかっていないと言われてしまうので補足すると、これとは別に政治的に案が通る、通らない・・・という話はあります。ここで取り上げているのは、実行に移され結果が出ている案は・・・という意味に近いです。)

意見を求めれば自分の立場から見た意見はたくさん出てきます。
しかし、違う部署、違う部門、違う役職、他社、他業界、地域、お客様、関連会社、取引先の担当者、他国、地球環境・・・自分と違う、想像をするしかない世界から見た意見や視点というのは出てきません。

そんな独りよがりの意見になりがちなので、ぜひ、他の立場から見たらどうだろうという問いかけをしてみると良いかもしれません。

これは情報収集にも当てはまります。
自分に都合の良い事実やデータを集めてくるけれども、それを否定するデータは集めてこない。

多種多様な世の中で、あるテーマで自分や自社にとって都合が良いデータや事実しかない・・・というのはあり得るのでしょうか?

不都合とまではいかないまでも、警告レベルのデータや事実は、注意深く調べると出てくる方が自然な気がしません?

個性を出そう、自分を出そうと自分色を強めよう、強めようとするので、そこはほどほどにして、周りを強めることで、自らを鮮明にする。

闇が深いから光が際立つ、闇がないと光も輝かない・・・といったことを気付かせてあげると、いい意味で力が抜けて独りよがりにならなくなると思います。

これは自分自身を振り返ってもわかります。
社会人2年目ぐらいまでは、相手に認めてもらおう、自分らしさを出そうと強がって、相手の立場を考えないことがしばしばありました。

そして事実やデータを持って無理やり通そうと説得していたような気がします。

3年目ぐらいになって、それではダメだと気付き、相手の立場に立って考えるようになると、とたんに仕事がやりやすくなったのを覚えています。

若い頃は実績もないですから、どうしてもそういう傾向になってしまうのかもしれませんね。

仕事に対する情熱なんかは私達と比較してもあると思うので、その情熱をうまい方向に活かしてあげれば問題ないような気がします。

ということで、ざっくりと書いてみました。
個別に見ていくと、上記のように単純化はできないのかもしれませんが、私達がめんどくさがって自分と違う所を見ていない、認めてあげようとしていないだけなのかもしれません。

相手を認めてあげるだけで、随分と活躍してくれそうな気がしています。